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サイエンスメディアな日々   インフォグラフィクスな日々

サイエンスのこと・テクノロジーのこと・ビジュアリゼーションのこと

クオリティについての視点

映像などのコンテンツを作っていると、制作スタッフの間で「クオリティ」が話題になることが良くあります。「もう少しクオリティを高めたいよね」とか、「このクオリティじゃだめなんじゃないか」とか、そういうやり取りをするわけです。ところが、同じ「クオリティ」と言う言葉を使っていても、スタッフによって考えていることに少し違いがあることに気がつきました。
「クオリティ」には大きく2つのとらえ方があるようです。ひとつは、テクニカルなもの。これは、映像で言えば画素数とか圧縮の方法とか定量化しやすい技術的なものから、撮影方法、色使い、デザインなど、暗黙知的な「技」と言うようなものが含まれます。
もうひとつは、独創性やオリジナリティと呼ばれるもの。簡単に言うと「今まで見たことがないものを作ろう」と言う気持ちから来る「作品全体としての価値」です。こちらは明示的に示すことが難しく、「テイスト」とか「インパクト」とかそういう表現でやり取りしています。
おおざっぱに言えば、前者は専門家内のクオリティ、後者は一般向けのクオリティ、かもしれません。例えば映像の専門家は、色調や音声の不整合、コマ落ち等に敏感です。しかし一般の人にとってそういうことは気にならず、気になるのはストーリーであり、全体の雰囲気なのです。

後者は価値が低い、と言いいたいのではありません。むしろ逆で、「一般向けのクオリティ」をもっと重視すべきだ、と思います。

制作スタッフだけの議論は狭い範囲に偏りがちで、後者、作品全体を俯瞰する「クオリティ」が置き去りになることがあります。まさに「木を見て森を見ず」。
もっと大きな視点に立って、「今、この作品は何のために作っているのか」くらい、大きく、客観的に自分の作品を見ることができれば、もっと良いものができる、と思うのですが。

そんなことを考えていると、昔、アメリカで働いていた頃のことを思い出しました。アメリカ人との会議での発言は、全体的なことと「オリジナリティ」が最優先され、細かい技術的な部分は専門家である個人個人にまかそう、と言うスタンスが強い。このためか、会議が大変効率的に感じます。集団でやるべきことと、個人でやるべきことの線引きが、暗黙に了解されている。(対して、日本の会議はなぜ「細かすぎる各論」と「曖昧な総論」ばかりなのか。)’

個人個人のクオリティと、それを集成したチームとしてのクオリティ、その2つがかみ合った時、すばらしいものが生まれるのだと思います。

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