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カバー考

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先日、バックパックの肩ストラップにiPhoneをとりつけるホルダーを買ったのだが、サイズがジャストフィットに作られているので、iPhoneにケースをつけた状態だとホルダーに入らない。仕方なく、ケースを取り外すことにした。ちょうど同じ時期、iPhoneのタッチパネルにつけていた透明の保護シートも剥がれてしまった。
つまり、僕のiPhone4はケースも保護カバーもついていない、買った時と同じ「無垢」の状態となってしまった。

でも、このおかげで、iPhoneの美しさを初めて認識することができた。今までケースで隠されていたiPhone4のバックパネルは、高級感のある黒色とメタリックなリンゴマーク、"iPhone"と言うテキストが配置され、側面を構成する金属製アンテナパーツの銀色と絶妙なバランスだ。保護カバーが無くなったタッチパネルは、以前よりもずっと滑らかで、指に伝わる感触も心地よい。
今回の出来事で、本来iPhoneに備わっていたデザインや機能を、ケースやカバーと言うもので邪魔していた、と言うことに気がついた。

考えてみると、僕に限らず日本人はカバーが好きだ。単行本や文庫本にはきれいに印刷されたカバーがついている。さらにその上に書店のカバーや、自前のカバーを購入する人もいる。自動車のシートやソファにもカバーをつける。ペットの犬にきせる服も、一種のカバーと言えるだろう。
「カバー」は、主役である製品を保護するための副次的なものだったはずなのに、いつの間にかカバーをつけた状態が通常の状態となってしまっている。ずっとカバーをつけたまま使い、一生カバーを取ることがない。これはもはや「カバー」ではない。もしiPhoneのケースと保護シートをつけたままだったら、今から数年後にiPhoneを買い換える時、はじめて「生身」のiPhoneを見ることになっただろう。捨てようとしているiPhoneはその時、「カバー」のおかげで無傷でぴかぴかだ。笑い話のようだが、多くの人が同じことをやっている。

今回、偶然iPhoneのケースやシートを取ることになって、僕はとても貴重なことに気がついた。世の中のものは(もしその製品が誠意を持って作られたものならば)、無垢の姿が、もっとも美しく、機能的である。ユーザーは、そのものの、本来の姿を発揮できるような使い方をすることが正しい選択なのだ。
今回気づいたことは、僕の残りの人生にとって、重要な指針になると思う。

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