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サイエンスメディアな日々   インフォグラフィクスな日々

サイエンスのこと・テクノロジーのこと・ビジュアリゼーションのこと

この5年間を振り返って(このブログへの想い)

http://d.hatena.ne.jp/yasuda0404/
このブログを始めたのは、2008年の5月、今から5年前だ。そして今回が500回目の投稿になる。5年で500投稿。ちょっとしたマイルストーンを達成したことを記念して、この5年間を振り返ってみた。

5年前は今の仕事を初めて間もない頃で、「こんな方向を目指したい」と言うおぼろげな考えはあるのに他人にはうまく説明できない、もどかしさを感じていた。自分自身がはっきり理解できていないものを他人に説明できるはずもない。まずは関連する情報を集め、整理することから始めよう、できるだけ多くの人に自分の思う方向を見てもらって、反応を確かめよう。
そんな目的で始めたのが、このブログだ。

その時の「おぼろげな方向性」とは、科学技術を扱うメディアを作ることと、情報やデータの可視化をビジネスにすること、だ。

当時持っていた問題意識は次のようなものだ。

現代社会はますます「科学技術」抜きに成り立たなくなっている。しかしその一方で、一般市民にとって科学技術はブラックボックス化が進み、いっそう中身が見えにくくなっている、という矛盾がある。政策決定者だけでなく、一般市民にも科学技術の知識は必須ではないだろうか。科学技術を知らなければ、これからの社会をどうするか、自分はどう生きるかを正しく判断することはできないのではないか。
しかし、なぜか社会全体が科学技術を理解することを避けようとしているように見えた。科学技術はブラックボックスで良い、と言っているようだ。この考えには大きな違和感があった。この状況を変えるには、例えば、井戸端や飲み屋で政治や経済・教育について語るように、科学技術についても気軽に語る文化を作ることだ。そのためには多くの取り組みが必要だが、そのひとつとして先端の科学技術と一般市民をつなぐメディアがあってもよいのではないか。その仕事に、科学者や研究者ではない僕のような一般市民も参加することに、意義があるのではないか。
それが、サイエンスメディアを始めた想いである。


もうひとつの柱である、情報・データの可視化(インフォグラフィクス)は、より広い取り組みで、その根っこはリチャード・S・ワーマンが提唱した「情報理解のビジネス」にある。
ワーマンは、その著書『情報選択の時代(Information Anxiety)』で、情報を扱うビジネスには、情報の伝達、情報の保管、情報の理解の3つがあり、その中でもっとも遅れていて、今後もっとも重要になるのが、情報理解のビジネスである、と述べた。
情報理解のビジネスとは、必ずしもデータ・サイエンスなどの先端テクノロジーを使うことではなく、例えば新聞記者やグラフィックデザイナーが無意識に行なっていることに近い。ある事実(データ)が存在し、そこから情報としての本質を取り出して、必要な人に必要な形で伝える。情報の理解とは、簡単に言うとそういうことだと思う。これこそ人間の知的活動の基本能力であり、(少なくとも今のところまだ、)コンピュータにはできないことなのだ。

つまり、情報・データの可視化とは、狭い意味での視覚化を指すだけではなく、より広く「わかるようにする」ことだ。(英語で、「わかった」と言うのを”I see."と言うように。)可視化は情報の理解を礎にしていなければならない。最終的な視覚表現を海面に突き出た氷山の先端だとすれば、情報の理解とは、目に見える「氷山の一角」を通して、海中にある巨大な氷山の塊を知ること、と言えるかもしれない。


これが「サイエンスメディアな日々・インフォグラフィクスな日々」に込めた想いである。その想いは今でも変わらないし、最近、ますます強くなっている。

例えば、5年前「科学技術」は(たとえ、サイエンス&テクノロジーとおしゃれに言い換えても)、何だか古めかしい、お固いイメージが強かったように思う。科学技術に関心があるのは一部の人だけ、と言う空気も感じた。しかし、この間に東日本大震災が起き、原子力発電の是非が大きな問題となった。サイバー攻撃による被害は一般の企業や市民も巻き込む脅威になっている。再生医療の希望が大きくなるにつれ、科学と倫理の問題も避けられなくなる。3Dプリンターに象徴されるMakerムーブメントは、これからのものづくりをどう変え、社会にどんな影響を与えるのか。
これらの出来事の本質を理解し、より良い判断を求めるなら、科学技術への理解は必須だと気がつく。英語を知らない人が、どの英米小説が優れているかを判断できないのと同じだ。もっとも恐ろしいのは、科学技術への理解が不足したまま、科学技術に支えられた社会の意思決定をすることではないだろうか。そして、そのような状況をおかしい、と思わなくなることだ。

「可視化」や「インフォグラフィクス」と言った言葉も、5年前はほとんど使わることがない、どちらかと言うとギークな響きのある言葉だった。今ではどちらもビジネスや日常生活で普通に使われている。
その背景には、世の中全体の「民主化の空気」があると思う。インターネットによって、理論的には世界中の誰もがつながり、情報を交換できるようになった。情報を交換するだけでなく、情報を交換することによって個人やコミュニティ、そして社会全体が動く。そんなことも現実におこる時代になった。インターネット社会の新しい民主化は、今まで表面に出ることができなかった個人が主役になる、大きな期待と希望になっている。
この新しい民主化を正しく機能させる重要な礎が、情報を正しく理解することだと思う。情報を正しく伝え、理解しなければ、民主化はカオスの世界に陥る恐れもある。それは権力者が情報を統制することではない。その逆に、受け手自身が情報の本質を正しくとらえ、情報のカオスの中から自分に、あるいは属するコミュニティに必要な情報を取り出すことだ。そこに、情報・データの可視化の大きな役割がある。


このブログはあくまでも、僕の興味・関心の赴くままに書いてきたものだ。ブログのひとつひとつを、一貫した思想や大義名分を持って書いてきたわけではない。その意味ではこのブログもまた、情報の巨大なカオスの中のひとつの断片にすぎない。それでも5年間このブログを続けてこられたのは、批判も含め、僕の書いたことに関心を持ってくれる人の存在が大きい。ブログへのアクセスや、ブックマーク、「いいね」をもらうと、このブログが単なる落書きではなく、どこかで人とつながっていることを実感できる。情報には人をつなげ、心の支えになる力もあると言うことを、このブログを書くことで教えられた。

そういう「化学反応」を通じて、もしかしたら僕が書いたことが誰かのヒントになったり、何かに役立ったりするかもしれない。もしそうなればとても嬉しいし、これからもそういう希望があると信じて、まだしばらくは書き続けたいと思う。

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