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データは必ずしも事実ではない:殺人のデータから見えてくること

http://online.wsj.com/article/SB10001424052970204661604577185122672243992.html
殺人はもっとも明白な犯罪であり、その事実は忠実に記録され、疑いようがない−−−。僕も含め、多くの人はそう考えるだろうが、世界的に見ればそうでもないようだ。

ウォール・ストリート・ジャーナルの記事によると、最近、メキシコの権利擁護団体が発表した犯罪率の高い50都市のうち、40が南アメリカの都市だった。しかし、この調査には、おそらく深刻な殺人が行われているアフリカや中東は、データ不足と言う理由で含まれていない。さらに専門家は、現地警察の「公表」によるデータは危ういと指摘している。事実、警察が発表した殺人の数と保健所(Public-Health Organization)のそれとではかなりの違いがあるそうだ。
特にアフリカやカリブ海の国々ではこの差が大きい。この差について国連は、「名誉殺人」など殺人の定義の違いや、一部の国では公共衛生のインフラが整っていないこと、あるいは、警察が故意に少なく発表している可能性、等のが要因があると述べている。

データの危うさは、政治的に不安定な国や発展途上国だけの問題ではない。例えば、米国連邦政府は最近、全死亡の中で殺人の占める割合は減少している、と報告しているが、減少の量は微妙で、誤差を含む可能性は高い、そもそも犯罪率全体の信頼性も疑わしい、と言う。

「データや統計に基づく」と聞くと、普通は客観的な事実だという印象を受ける。しかし、多くの統計は、悪意が無い場合でも「データが得られた事実」でしかなく、そもそも、事実を隠したり、ねじ曲げたデータである恐れは常にあるのだ。特に政治や犯罪に関するデータの多くは、データの発表者が当事者でもある。考えてみれば気がつくけれど、考えてみないと見過ごしてしまう落とし穴だ。
可視化をはじめ、データを扱う際には、この落とし穴に十分注意する必要がある。落とし穴を埋め戻すことは容易ではないが、少なくとも落とし穴があるかもしれない、と言う用心と忠告は必要だと肝に銘じておきたい。

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