「海外スター記者が続々と新メディアを起ちあげ」という記事を目にした。既存のメディアで記事を書いてきた優秀な記者たちが、既存のメディアを離れ、インターネットに焦点をあてた新しいメディアを起ちあげる動きが活発になっている、というものだ。
現在ウェブで流通しているコンテンツは、幅広いスペクトラムを持っている。要するに「ごった煮」状態だ。コンテンツの中でも特に社会に強い影響をあたえるのが「ニュース」と呼ばれる分野だ(「ニュース」はコンテンツではない、という議論もあるが、ここではコンテンツと捉えて話を進める。)しかし、現在ネット上でやりとりされているニュースの大半は、新聞やテレビといった既存のメディアが配信しているのとほぼ内容を、インターネットで流しているにすぎない。これは例えば、映画の黎明期に舞台のパフォーマンスを上映したように、あるいは、テレビの黎明期に映画を数多く放送したように、新しいメディアが現れる時の過渡的なプロセスにすぎないだろう。インターネットがまったく新しいメディアだと考えられるのは、既存のメディアとはまったく異なる何かを持っているからだ。現在のネットニュースはまだ、その潜在能力をほとんど使っていない。
インターネットの持つ潜在能力とは何か。そのもっとも根本にあるのは、インターネットというメディアは特定の人が所有するものではなく、あらゆる人の共有財産である、ということにあると思う。インターネットがテクノロジーに支えられる現代のメディアではあることは間違いないが、所有という視点では、水や空気と変わらない、ある意味、非常に原始的な共有物に近いのかもしれない。僕達現代人は、インターネットという「世界の裏側まで届くメガホン」を手に入れた。そう考えても良い。
インターネットは元来、オープンなものだ。情報を公開・共有しようという意思を持った「健全な」メディアと親和性は高く、絶好のツールのはずだ。もちろんインターネットにアクセスできない人々もまだ多い。ある調査によれば世界人口の6割は自由にネットにアクセスできないそうだが、テレビや新聞の局所性に比べれば、インターネットは現状でも圧倒的にリーチ力に優れたメディアだ。しかも、そのリーチ力は今後さらに拡大しようとしている。
インターネットを使えば、今までとは違う新しい社会、世界を創ることができる。好き嫌いはあっても、「次はこれだよね」というコンセンサスは、世界中で共有されている。しかし一方で、インターネットをどう使うべきなのか、その具体的な方法は、まだ見えていない。僕達の世代に与えられた使命は、インターネットと社会、そして人々をつなぐための方法を探す「開拓の旅」に、勇気を持って出て行くことではないだろうか。
冒頭で紹介した、個人あるいは小さなグループによるニュース配信は、そのような胎動の一つだと思う。背景には、既存メディアに対する疑問や社会の閉塞感といったネガティブな面もあるだろう。しかし、インターネット・メディアの発展という視点から見れば、新しい創造の動きでもある。インターネットの持つ潜在能力が、感受性に優れた有能な記者たちをひきつけているのではないだろうか。
もしインターネットの潜在能力を信じるのであれば、たとえば自分自身は「開拓の旅」に出なくても、少なくとも邪魔をしないようにしたい。それは、邪魔をしようとする「古い社会の人々」から、開拓者たちを守ることなんだと思う。