AIが急激に進化している。画像生成AI(DALL-E、MidJourney、StableDiffusionとその派生モデルなど)や、会話AI(OpenAIのChatGPT、OpenAI/MicrosoftのBing-GPT、GoogleのBART、FacebookのCAIRaokeなど)など、その性能は多くの人に衝撃を与え、期待を抱かせ、興奮させている。
その一方で、これらのAIについて厳しく批判する人たちもいる。その理由はいくつかあるが、もっとも多いのは「まだ人間のレベルには達していない」「人間にしかできないことはまだまだある」というものだ。
僕は間違いなく、AIの可能性について肯定的な人間のひとりであるが、そんな批判者たちの言っていることも間違っていないと思う。AIの能力がすごいことも、AIの能力が人間に劣ることも、どちらも正しいのだ。違いは、AIがもつ未来の可能性を見るか、現在の制約に目を向けるか、という視点の違いにすぎない。
それを踏まえた上で付け加えると、AI批判者たちの「批判」は厳しすぎないか、ということだ。
たとえば次の記事もそのひとつである。筆者は、AIが作った詞をサザンのそれと比べ、AIの曲を山下達郎と比較している。
しかし、これはあまりに不公平な批判だ。
AIは、技術としては面白いが、実際の仕事に使うのはほとんど無理だった。人間でいえば赤ん坊にもみたなかったのだ。それがここ数年で、分野によっては仕事に使える領域も出てきた。ただ、AIの能力を「全人的」に測るなら、まだ5,6歳、よく見ても小学生なのである。
たとえば、草野球レベルでも箸にも棒にもかからない、とみなされていた高校生が、猛練習のおかげで野球がうまくなって少し注目を集めた途端に、「まだ大谷翔平のような玉は投げられないじゃないか」「村上宗隆のようなホームランは打てないよな」と批判するだろうか。そんな批判をする方が、批判されるべきではないか。
生成AIの話に戻そう。とにかく、この技術はクリエイティブ業界に革命をおこすことは間違いない。
僕は一応「クリエイティブ」と言われる業界にいるが、桑田佳祐や山下達郎、岡本太郎や草間彌生に仕事を頼む機会などまったくない。 仕事を依頼する先は名もないクリエーターたちだが、それでも仕事としては十分なクオリティのものを作ることはできる。桑田や山下のクオリティがなくても問題ないのだ。(むしろそんな大御所に頼むと、クライアントや僕のの意向は無視されてしまうだろうから、より問題かもしれない)
そのような「普通の」仕事に取り組んでいる人たちにとって、AIは「大革命」をもたらす。イラストや映像や曲を、さまざまなテイストで、かなりのクオリティで、24時間不平も言うことなく創作してくれたら、どれだけ助かるだろうか。これは「革命」という言葉では言い足りないくらいなのだ。
今、AIを批判している人たちは、少々行き過ぎた「人間中心主義」になっていないか、自問自答してほしい。現実的な条件のもとで、批判すべきことは批判していいのだが、あまりに(AIにとって)不公平な批判は、ある種の差別にも似ている。この革命的なテクノロジーを客観的に、公平にみているのかを、一度立ち止まって考えてほしい。